カテゴリ: 民話・伝説

「大山さん」の性格

テーマ:地域情報

寒い日は、ほっこりと読んでみてみてください
鳥取県のシンボル・県民の心のよりどころ「大山」
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鳥取県観光連盟様HPより

日本で3番目の国立公園となった大山。

倉吉から見た大山

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撮影日:2024年2月3日

中国地方最高峰 大山の主峰・弥山(みせん)は標高1,709m

※昨年の夏、大山寺に登山グッズを買いに行き
 私たちが今年登山をする美しい姿の伯耆富士を眺めて

あれあっちの山の方が高くない

U3avsXS5そう、です。

一番高い場所は 剣ヶ峰 

剣ヶ峰が最高点の標高1,729mですが、
剣ヶ峰に至る縦走路が通行禁止
されているため、
一般的に弥山(みせん)を山頂
されているそうです              
Wikipedreakより

じげ風呂時代のブログ読者ひまじん様
「倉吉から見える山の名前まとめ」という
ブログをご紹介
くださいました 

のブログを見ると、明日から大山・蒜山の見方が違ってきますよ

「のんきーのはらぺこ日記 ~鳥取県で食べます~」

それでは今日のブログの本題

私たち鳥取県民
特に西部・中部地区は大山の恵みを受け、美味しい農作物をつくり、
何度も風水害から守ってくれ

事あるごとに「大山さんのおかげ」と感謝をしています。

そんな優しい大山さんですが・・・

若かりし頃は、少しやんちゃだったようです

大山さんの性格が分かるお話

大山と三徳山(三朝町)が出来た時
三徳山の方が高く、大山はやや低かった。
三徳山と大山は背の高さで言い争いをしたが、判定を天の神様に頼んだ。

P5BSQC5g神は長い樋を両方の山の頂上にかけ、
樋に中ほどに水を注ぎ入れた、
水が東の三徳山に流れるか西の大山に
向かうのか、多くの山々が注目して
いると、水はゆっくり西の方に流れて
いく。

きかん気の強い大山はあわてて、
ちょうど博労座の牛馬市の終わった
跡にうずたかく積み上げられていた
牛馬の古わらじを頂上に継ぎたして、
三徳山を低くした。 

                イラスト=鳥取県様HPより

しかしそれだけでは不安で、     
なんとしかして三徳山を低くしておこうと考え、大きな鋤を持って
三徳山までやって来た。

三徳山はぐっすり昼寝をしていたので、
大山は山頂の土をこっそりすくって逃げ出した

その物音に目を覚ました三徳山は、
持ち去られた土を取り返そうと追っかけた

あわてた大山は、長瀬のあたりで岩のかけらを一つ落とした。

これが長瀬の岩山で、
土が少しこぼれて丘になったのが江北の天神山である。

三徳山はなおも追いかけてくるので、
つかまってしまうと思った大山は、盗んだ土を残らず落として捨てたのが、北条平野の真ん中にある茶臼山になったという。

足の速い大山には三徳山も追いつけず、諦めて帰ったが、
削られて今の形になったという。      
 2020年3月25日 日本海新聞に掲載された鳥取の民話より

 投入堂の場所が大山さんが鋤ですくった場所でしょうか

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 大山との背比べをした山の昔話は
 たくさんあります。

 最初に読んだときには📚📚📚
 大山性格悪るー
 思いましたが、

 三徳山側の言い訳に
 大山さんが悪者にされた
 んですね

 

こんな風に言われても
悠然としている
大山さんやっぱりすごいです~

三徳山三佛寺様HPより

 新聞で昔話の解説されている元鳥取短期大学教授
 酒井 董美(ただよし)氏

pcL1EliS普段眺める山に親しみを感じて、
人々はほほえましい伝説
作り上げていた。
その中でも山の高さを競って、
どちらが高いか高さ比べをし、
結論はわが里の山に軍配をあげて
いたのである。

このような話は全国各地に
たくさん残されている。
昔の人々はよほどこの種類の話が
好きだった模様である。

鳥取県内でもこの話はいろいろある。
他では大山と高麗山、大山と丸山などがあるが、
いずれも一つ大山が主役になっている。

愛されている証拠ですね

鳥取県立博物館HP「鳥取の民話」コーナーがあります。

読んで、ほっこりとなさってくださいませ

大山とカラ山の背比べ(米子市今在家)

鷲峰山と大山の背比べ(鳥取市鹿野町)

lWsUBShQ 倉吉市関金町に伝わるお話
 矢止めの荒神さまの続き
 
 構成:寺西竜也氏  
 作画:影山ひろこ氏

昨日までのお話矢止めの荒神さま①

ヤマトタケルと神は悩んでいました。

3MrtCMYf昔からこの地には「荒神さま」
呼ばれ慕われている一柱の神がいて
治めていたので人々は平和に暮らし
ていたのでした。
そこに九州から領土を狙ってクマソの
軍勢が攻めて来て、山と地と人々の
平和は乱されたのでした。

天皇の息子であるヤマトタケル
この国の人々をその状況から救おうとやって来たのですが、
荒神さまを信じ慕うこの土地の人々の中には天皇の国の者を
よく思わない人々も大勢いるようでした。

かといって、このままほっておけばこの地の人々が今以上に
苦しめられるであろうことは簡単に想像できます。
でも、自分も敵だと思われている・・・・
どうすれば、人々に危害をあたえずクマソを上手く追い払い 
  この地に平和な暮らしを取り戻せるのか・・・

こういう策はどうだろうかオオクニヌシが口火を切りました。

F9fKzqL0 タケルよ
 今我らがのいる高城の山から
 美作の方角に荒神の住まいと
 いう生竹の山を見下ろせる
 高さの山がある。
 その山の頂からクマソの軍勢
 も多く潜むという荒神のいる
 生竹の方角に向けて
この地に
 巣食う魔を祓うべく祈りを込め
破魔の鏑矢(かぶらや)を放つのだ。

さすれば、
「悪しき者」はこの地より祓われ、善きものは残るであろう

オオクニヌシの案に、
スサノオとヤマトタケルは顔を見合わせてうなずき合いました。

ヤマトタケルは早速、自信の身の丈も超える大きさの弓とその弓にしか合わないこれもまた大きな鏑矢(かぶらや)を背に 二柱の神と共に山へと出発しました。 
鏑矢について

ltUibPJF山頂はひんやりとした空気に包まれ
真っ青な空が広がっています。
ヤマトタケルは胸いっぱいにその空気
を吸い込み鏑矢を番え、男が三人かか
っても引けない弓をギリギリギリッと
引きました。 
この矢の届く限り悪しき者は
 退散し我が守護の地とならむと
 願い奉り申す


祈りの詞をあらん限りの声で唱え
いっぱいに引かれた弓手をはなしました

飛び出した矢は空気を引き裂きビュウー ウウウォオオオオオーーーーーと天地の割れんばかりのものすごい音を叫びながら空の彼方へと飛び去ってゆきました。ヤマトタケルと二柱の神は矢の吸い込まれて行った空を何かを確信したような顔で見つめました。

 IocIiNLr早朝・・・
 荒神の治める地の人々は
 今まで聞いた事のないような
 恐ろしい音に驚き飛び起きました。
 そして
 轟音を響かせながら荒神さまの
 おわす御山めがけて飛んでゆく
 光る尾を引くものを見手大騒ぎ
 になっていました。

荒神さまめがけていったぞ、あの光・・・!
荒神さまに何かあったら、これからどうなってしまうだ・・・
荒神さまが大変だ・・・荒神さまに何事もありませんように・・・

何人かの村の若者が すぐさま山に向かいました。
残った人々は、荒神さまの無事を御山に向かって祈り続けました。
誰一人、逃げ出そうとする者はいません。
鏑矢はぐんぐん勢いを増して クマソの軍勢が潜み荒神さまの治める
生竹の地へと飛んでいきます。

eDmz5Zsq生竹の山で休んでいた荒神さまは、
遥か遠くからものすごい速さで
飛んでくるモノの気配を感じて
体を起こしました。

目に見えるほどの光を発して
飛んでくるそれはヤマトタケルの
撃った鏑矢
です。
荒神は大きなその手でものすごい
速さで飛んでくる矢を掴みました。
まだ光を失わないその矢を見た荒神は息をのみました。
・・・・なんという強い力の込められた矢だ・・・
荒神は駆け付けた村の若者たちに向かって言いました。

これは、この地にものすごい御方が現れた・・・
 村人よ・・・帰って村の者たちに伝えるのだ

 この矢の力を使えば この地に再び平和を取り戻せるかもしれん

荒神は、タケルが祈りを込めて放った矢に自らの祈りも込めました

破魔の力で我がもとまで飛んできた鏑矢よ、我の力と祈りも乗せて
 魔を破りこの地に再び平和をもたらせ・・・・・・

そして、再び渾身の力で以て飛んで来た方角の空へと投げ返しました。

 lPBoEljq荒神の力が上乗せされてさらに
 威力を増した鏑矢は天を引き裂き
 大地を揺るがすような音を辺り
 に轟かせながらタケルたちのいる
 美作の山へ向かって飛んでいき
 ました。

 なんて恐ろしい音だ・・・

 
あまりの音で、見ろ
 地面まで揺れておるぞ

んな恐ろしい力を持った何かがこの国にはいるんだ
 わしらが束になってかかっても 敵いようがない・・・
 逆にわしらの国が
獲られてしまうわい

森や浜や あちこちに身を潜め宿営地待機していたクマソの軍勢は
生まれて初めて耳にする何かの鳴声のような大きな音を聞いて、恐れ戦い、慌てふためき 兵隊たちは先を争って逃げ出しました。

すすど おおおん 

一際(ひときわ)大きな音とグラグラグラッという地面の揺れとともに
鏑矢
はヤマトタケルと二柱の神の登っている山の麓にある大岩の中程に
深く突き刺さり
ました。

phTv8sSiヤマトタケル荒神の力の合わさった 
強力な破魔の矢が突き刺さった大岩の
穴からまるでその場を守るように
するりと不思議な光を身にまとった
白蛇
が姿を現し、退散して行くクマソの兵隊たちの背ににらみを利かせます。

生竹の村人たち
喜びに沸き返りました。
大人も子供も年寄りも、
みんなその目に涙をうかべて喜び合いました。 
この地にまた平和が戻って来たのです。

 fYHeIWRiヤマトタケル
 クマソの軍勢がまるでクモの子を
 散らすように国ざかいの遥か向
 こうまで撤退してゆく様を
 スサノオ、オオクニヌシの二柱
 の神と共に見ていました。

 これで良かった・・・
  これでこの地
  に平和が戻ったのだ
・・・

ヤマトタケルが、優しい顔で言いました。

うむこれで然(そ)う然(そ)うあの者たちもこの地に手をかけようとは思うまい。スサノオが言いました。

御主の力のその上に荒神の力が乗った鏑矢を祀れば永きに亘ってこの地に近づこうとする魔を祓ってくれよう。オオクニヌシが言いました。

ヤマトタケルは一つ強く頷(うなづ)き
後は、この地を治めておられた荒神様に全てをお任せして我らはこの地を
 後にしよう・・・

そう言って、また二柱の神とともに旅路につかれました。

クマソの軍勢を追い払い、再びこの地に平和をもたらした矢
麓に住む人総出で引っ張ってやっとのことで大岩から引き抜かれました。

大岩に突き刺さったはずの鏑矢には
毛先ほどの傷もついておらず、つやつやと光沢をもって輝きました。
は、人々の手で白い布に包まれて立派な箱「櫃」(ひつ:ふたが上に
開く大形の箱)に納められ社を建てて祀られました。

l8cmamUTこのことから、
このあたりの土地は
「矢櫃」
(やびつ:関金町山口)と
呼ばれるようになりました。
鏑矢を祀った社は「矢送り神社」
呼ばれ、今でも人々に慕われ参拝
する人はあとを絶ちません。

ヤマトタケルが荒神さまに
向けて矢を放ったあの山

「矢筈山」(やはずがせん)と呼ばれるようになり山頂の大岩には石の祠(ほこら)は建てられ
「唐王権現さま」
と呼ばれ祀られるようになりました。


荒神さまが投げ返した矢が通った側を流れる川
「矢送り川」と名づけられました。

平成25年に作られたこのお話の紙芝居の最後には

 そして・・・

みなさん、知っていますか

矢送り神社の方のお話によれば
今でもあの鏑矢が突き刺さった開けた穴の傍にはうっすらと 
が姿を現ことがあるそうですよ・・・・・ おしまい

                    矢筈山
矢送り神社(関金町山口)      (大山町と琴浦町の境にある大山山系に属する山)

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矢送り神社は階段が多いようですが、是非ご参拝なさって見てくださいませ
 


gcYIPWOU今日は、倉吉市関金町に伝わるお話
矢止めの荒神さま
をご紹介
いたします.
倉吉に住んでいてもこのお話は
全く知りませんでした     

鎌倉時代中期の文応元年(1260年)に
創建された
矢送神社

なので、
初めて見聞きするので先に簡単にご説明
大昔、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が、西国平定のために、
伯耆(ほうき)の国瀬戸の港に上陸し美作(みまさか)の国への道すがらの出来事です

 lWsUBShQこれは、倉吉の奥関金の地に
 伝わる今から二千年以上の昔 
 神々の時代
のお話です。
 その頃の日本では九州一帯から
 強力な力をつけて来た
 クマソの国の軍隊がいよいよ
 海をわたり領土を争って
 日本の西の方で暴れまわり
 平和の乱れた時代でした。
 

この物語の主人公は当時の日本を治めていた十二代景行天皇の皇子、
ヤマトタケルの尊です。

4AXp6sXiある日のこと。
瞑想をしているヤマトタケルのところ
に光の中からタケルの遠いご先祖様
でもある太陽の神様アマテラス大御神
スサノオの尊オオクニヌシの尊
二柱を従えて現れました。


タケルよ・・・
今、西国では九州の果てより来たる クマソによって人々が苦しめられて
おる・・・どうかこの国の平和を取り戻すため。クマソの国の軍勢を
成敗してくれぬか・・・

アマテラス大御神さま、わかりました・・・きっとやり遂げます

タケルよ、わしの剣を使うがよい。
 そう言ってスサノオは剣を差し出しました。

かつてわしがヤマタノオロチを成敗した時に その尾より現れた
 天の叢雲(むらくも)の剣だ。待ち受けるどんな障害もきっと切り
 祓ってくれよう。

スサノオ様・・・有り難く使わせていただきます

こうして 
ヤマトタケルはスサノオ とオオクニヌシとともに西へと旅立ったのです

 p8V3EiAk船で都を発ったタケルたち日本海の
 荒い波を乗り越えて伯耆の
国、由良(北栄町)の入り江にたどり着きまし
 た。

 潮の流れに乗り、上陸にちょうど
 良い場所を求めて進んでゆくと、
 進む先の岩場や浜になんと
 打上げられています。驚いていると

こぎ手の一人が言いました。

潮の流れが強いので、鯨が打ち上げております。
 だから、あの辺りはクジラと呼んでおるのです。
 クジラと呼ばれていたこの場所は今では「別所」(倉吉市灘手地区)と
 いう地名となっています。

さて・・・・・
二柱の神とヤマトタケルは荒れ海の中「島」という所から上陸されました。今の「宮崎社神」(北栄町大島)のあるあたりです。

mV1Lq7ri上陸された三人は 
手に弓、腰には剣を帯されて立派な
衣装に身を包まれて覇気が満ち、
とても神々しい姿です。
『わ、わああ!』
『敵だ!速く逃げろ!』
その姿に恐れをなして浜の漁民に
ちょっかいをかけていたクマソの兵が
逃げ出し
ました。

騒ぎを聞きつけて村の住人が家から出てきました。

丈夫かなどこにも怪我はしておらんか

スサノオとオオクニヌシは優しく声をかけましたが・・・
当の姉弟も、村の者たちも怪しい者を見る怪訝(けげん)そうな様子です。

ありがとうございました。助かりました・・・それじゃあ・・・

 立ち去ろうとする姉弟を引きとめヤマトタケルが言いました。

あなた達、さっきの兵のような他国の兵がまだ潜んでいるだろう
 彼らがどこにいるか、知っていたら教えてくれないか。
 私たちは、その者どもを成敗しに来たんだよ。

村人は、森に続く川を指差して 
この川をたどって、分かれる国府川(倉吉市社地区を流れる川)を遡って
行けば嫌でも出くわす 。と言い、足早に家々に戻って行ってしまいました。

一行は国府川の上流、高城(倉吉市高城地区)の山を目指して進まれました。
高城の山への道のりは大変厳しいものでした。そこは、獣も通らないような険しい獣道でした。足元にごつごつした岩肌がむき出しになっているうえ、胸の辺りまで届くような草が、まるで炎が燃え盛るようにみっしり生えていて全く見えません。

ヤマトタケルと神は剣をふるい
おおい繁る草を薙ぎ払い道なき道をかき分けて進んでゆきました。
grt5RWSL 進むにつれて現れ襲いかかってくる
 クマソの兵を倒し、村人をすくい
 ましたが 当の村人たちは少しも
 安心した様子はありません。

 その訳は、
 ある親子を助けた時に分かり
 ました。
 
 
クマソの兵に襲われ傷ついた父親はなお体を呈して子供をかばいつつ

ヤマトタケルたちに向かって言ったのです 

・・・ ここは、荒神さまが守るわしらの土地じゃ・・・
これ以上わしらの暮らしを乱すな・・・出て行ってくれ・・・

こっ・・・荒神さまがしょうちせんぞっ・・・・・・

そうなのです。

この国の者たちはヤマトタケルのことも敵だと思っていただのです。
むしろ、今まで苦しめられていたクマソの兵をやすやすと倒してしまう
ほど強い新たな敵がやって来た!と戦々恐々としていたのです。

続きはまた明日

矢止めの荒神さまのお話は、出雲神話・日本古事記・関金町誌、今と昔のせきがね、風土記せきがね、生竹自治公民館、倉吉伝説採話を参考に作られています。

構成:寺西竜也氏  作画:影山ひろこ氏

里見忠義哀歌

テーマ:民話・伝説

9月11日(日)雨上がりのくもりのち晴れ 
午後から残暑厳しく暑かったです

昨夕18時頃から雨が降り満月の十五夜(中秋の名月)が見られないと思っていましたが、とっとり中部では見ることが出来た
ようです。

デジカメパソコン 鳥取中部観光推進機構様ツイッター 

 さて、今日は9月4日(日)に3年ぶりに開催された
倉吉せきがね里見まつり
倉吉里見時代行列ご紹介します。

と言っても他団体様の写真を載せるだけですが

 里見一行は、
里見忠義公と家臣が眠っておられる大岳院で法要を済ませた後、
白壁土蔵群を通り国替えを命じられ最初についた関金(堀村へ)向かいます。 

今年は、忠義公没後400年の節目であり、
忠義公・八賢士を募集され市民甲冑を身にまとい練り歩き
 
 
小学生くらいのお子さん外国人のお姿も

里見時代行列に参加された外国人の方は、
倉吉市内にお住まいのフランス人エルカルキ・ファリッドさんで
「甲冑を切られたのが夢のよう。うれしい」
と話されたそうです。
(日本海新聞より)
 

関金都市交流センターでは、
 
 関金子供歌舞伎パソコン キャラクターコンテンツ「倉吉八犬士」
声優榊原優希さんのトークショーな
どが行なわれました。
               榊原さん、役柄のピンクの着物で登場して欲しかったです
 


掲載写真は、
デジカメ=倉吉観光MICE協会様 倉吉八犬士様 倉吉市様
 
このまつりは、倉吉市民だけではなく、里見忠義公の子孫の皆様等で結成する
全国里見一族交流会のメンバー毎回参加されているそうです。
大岳院の法要には10名参加され、堂本暁子元千葉県知事が代表して墓に献花と焼香をされた
そうです。
※里見忠義公は、安房国館山(千葉県館山市)の最後の領主 
 
また、関金町堀地区 主従の廟前においては、関係者だけで神事が行われています。
 里見忠義公と倉吉についてパソコンこちら
 
まつりは今回で35回目
近のものと言えますが、暖かい安房の国から寒い山陰伯耆の国へ
国替えを命じられ、大変苦労され若くして亡くなられ無念だったと思います。
 
しかし、こうして市民・子孫の皆様が忘れずに忠義公に思いをはせている
ことを喜んでくれていることでしょうね


倉吉せきがね里見まつりのイベントをご紹介した
9月2日のブログに
夢酔藤山様よりコメントをいただきました。

コメント:
全国里見一族会として観覧させていただきました。
      URLに当日のことをざっくり記してございます。
      東国にも、もっと知られていい催しです。

どなただろうクエッションマークと検索してみると
倉吉せきがね里見まつりHP
「里見氏大河ドラマ化に協力いただいている小説家の夢酔藤山さん
執筆された「堀村の空ー里見忠義哀歌ー」
を紹介します。
と記載がありました
 
 夢酔藤山様ブログ 散文小径 目ペコペコ
 
 
 

最古の記述

テーマ:鳥取の「人」!

 

11月28日(日)晴れ 
今日はいい天気〜

昨日はとても寒い一日でした

倉吉白壁土蔵群は昨夕あられが降ったそうです
デジカメ
パソコン 倉吉観光MICE協会様Twitter


だた、今日から寒さは少しひと休みするようですが・・・・


さて倉吉で盛んに生産された脱穀用の農具の「千歯扱き」について
鳥取で古文書が発見
ビックリマークされたことが話題になっています



アップ写真の千歯扱きは2015年に豊田家住宅で見たものです。 
パソコンログ目ペコペコ※いただいたコメントもご覧ください。

 千歯扱きは、倉吉の鍛冶町で作られていたものと思い込んでいました

新聞記事を読むまでは・・・本本本  パソコン日本海新聞

 

 アップ倉吉博物館に所蔵されている有形の民俗文化財である「倉吉千歯」

千歯扱きについて➡パソコン Wikipedia 

新聞には・・・ダウン 

千歯扱きの記述が確認できる文献は安政年(1854~60年)のものが
最古とされてきたそうですが、この度発見されたのはそれより100年以上
前にさかのぼる江戸時代中期の享保年間(1716~36)のもので、
この資料・・・県中部の旧家から引き取った屏風の中から発見された
そうです
じげぶろ〜くん(ムンクの叫び)

この古文書は屏風の下張りとして300枚以上使われていたそうです


この貴重な古文書は千歯扱きの販売や修理をした際の帳簿で、
商品の名称と販売先、代金を日付順に記録されているそうです。

帳簿には、新品の千歯扱きの販売、修理の記載があり

新品の千歯扱き・・・一新せんは 壱丁 代銀三拾目  
修理・・・せんは直シ壱丁 代銀八匁
 

 職人に関する史料はほとんど残っておらず発見の古文書の価値は高く、
刀工の一族が江戸時代になって野鍛冶となったことを示す史料と同時に
千歯扱きの歴史をひもとく重要な発見だそうです。

 中でも、
「せんば」の表記があることが新しい発見で、
せんばの修理代は 代銀八匁に対し、稲こきは代(銀)五匁 で、
「せんば」の方が高価だったようで、どちらも鉄製の歯が複数あった農具と思われ、同時代に併存いていたと読み解ける。

ただ、専門家の意見が異なる見解をされているそうです。 

千歯扱きとは別の農具があったかについては断言できないビックリマークとし、
裏付けとなる新しい資料の発見が期待さえるところ。
 と

歯の数だったりして


この帳簿を残したのは、
室町時代から末期から江戸時代初期にかけて
伯耆国(鳥取県中西部)で活躍した刀工見田広賀(みたひろが)子孫


久米郡津原村(現:倉吉市灘手地区)
見田平五郎廣賀の表記があり、ご子孫は代々「広賀」の名を継承

>見田家は、
農具や生活で使う刃物を製造、修理する野鍛冶屋で、津原村の庄屋でもあったそうですじげぶろ〜くん(ハート) 

 

鳥取藩の武士、浅田牛之丞が「薄刀(のこぎり)」を注文した際の出来栄えをたたえる手紙には、広賀の子孫が高い技量を持ったことがうかがえるそうです。


現在北栄町で開催されている
「不滅の刀〜よみがえる伯耆国の赤羽刀」
で、刀工見田広賀さんが手がけた刀剣の展示や今回発見された古文書が展示されているそうです。


 気になる見田家 

私が知っている津原の「みた」さんは美田さんが多いのですが、電話帳で
調べてみたところ倉吉市内に「見田」さんのお名前を見つけました

子孫の方はお元気でお過ごしなのでしょうか

大昔、灘手地区は海だったと聞いたことがあり、
屋号がくじらのお宅があるとも・・・

標高が低いので、海だったとは思いますが、気になる灘手地区です 

 

 

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