
久しぶりに青空が広がる気持ちがよい朝となりました



倉吉では、予定通り倉吉里見時代行列・せきがね里見まつりが
開催されることでしょう~



8月31日の日本海新聞に
10月に映画八犬伝が公開されるとありました


映画は、江戸時代後期に活躍した戯作者の曲亭馬琴を主人公に、
代表作「南総里見八犬伝」の世界が交錯するエンターテーメント作品

10月25日より全国ロードショー 八犬伝予告



映画「八犬伝」公開前に作成された
作成された倉吉歴史探訪パンフ



八犬伝に登場するキャラクターのモデルとなった
里見家最後の当主、忠義とその家臣は倉吉市関金町で最期を迎え、
市内には墓所や廟が点在している。
映画公開後に歴史ファンの来訪が増えることを想定し、倉吉せきがね里見まつり実施委と
倉吉観光MICE協会が共同で「倉吉歴史探訪」を発行

豊富な情報を収録し、歴史ファンだけでなく、市民も楽しめる内容となっている。
パンフレットは観光施設や同作品を上映するMOVIX日吉津に設置される。
(日本海新聞より抜粋)
29日紹介の内容もありますが、ぜひご覧くださいませ



里見忠義公は、徳川家康が江戸幕府を開いて間もない
慶長19年(1614年)9月9日安房国藩主里見安房守忠義は、
21歳の時 御上意により伯耆国倉吉へ国替えを命じられました。
老中・大久保忠隣の謀反を助けたという理由で突如安房国
九万二千石を没収され常陸国(茨城県)
三万石の替地として天領・倉吉が与えられたのでした。
倉吉に赴任して3年――
神坂(かんざか 賀茂神社のふもと)に居を構えました。
満開の桜が咲き誇る打吹山で村人を招いて花見の宴を催しました。
村人の美味しい料理と余興で、
3年前この倉吉に来た時は恨み言ばかり言っていた家臣たちが
楽しそうに笑う姿を見て、我々を悲運の君主と呼ぶことなかれ!
良き民 良き家臣に巡り会えた幸運の君主であると感謝の気持ちで
あった。
忠義は神坂にいた3年の間に
里見家の再興を願い、神社・寺院の再建と保護に力を注いでいた。
しかし―その後、
播州 姫路城の池田光政が鳥取藩主になると、食うのがやっと百人扶持を
あてがわれ、領民に惜しまれながら田中村(下田中)へと移された。
倉吉に来て5年後、
移住した堀村(関金町堀)で極貧生活の中病に倒れ闘病生活をしていた。
そして元和8年(1622年)6月19日に倉吉に来て8年29歳という若さで命尽きた。
遺体は荼毘(火葬)にふされ、生前縁の深かった大岳院に埋葬された。
忠義の死から三か月後・・・8名の忠臣が殉死した。
その戒名には「賢」の文字が刻まれ、
やがて「八賢士」と呼ばれるようになった。
「八賢士」たちは、いまも忠義公のそばで静かに眠っいます。
忠義が神社・寺院の再建と
保護に力を注いだのが
北野神社本殿(倉吉市北野)、山長神社(倉吉市森)・北条八幡宮(北栄町北尾)
亡くなった後、検死を受けたのち、
小鴨川と国府川が合流するあたりの定光寺河原で荼毘に付されました。
忠義が倉吉に初めて住んだ屋敷跡は、賀茂神社下、松原旅館のあたり
倉吉での二番目の屋敷跡は、
勝宿弥(かちすくね)神社 付近。屋敷跡だったといわれる個人宅の敷地内には、
「里見井戸跡」が残り、祠(ほこら)と石碑が建っています。
また勝宿弥神社には、忠義が改築したという伝承が残っています。
三番目の住居は関金の堀村。
山郷神社のあたりであったと思われ、周辺には安房守様と呼ばれる祠や五輪塔が群が
数カ所あります。
里見主従の終焉の地となったこの場所に、
堀村の人たちが彼らの心情を憐み、神社西方にあるシイの大木の根元に、御霊を祀った
廟があります。
記載内容は📚📚倉吉市が発行された〜悲運の君主と「八賢士」里見忠義より
倉吉市民だけではなく、里見忠義公の子孫の皆様等で結成する
全国里見一族交流会のメンバーが毎回参加されているそうです。
大岳院の法要には10名参加され、2022年には堂本暁子元千葉県知事が
代表して墓に献花と焼香をされたそうです。
※里見忠義公は、安房国館山(千葉県館山市)の最後の領主

主従の廟前では、関係者だけで神事が
行なわれます。
最近のものと言えますが、暖かい安房の国から寒い山陰伯耆の国へ国替えを命じられ、大変苦労され若くして亡くなられ無念だったと思います。
倉吉せきがね里見まつりのイベントをご紹介した9月2日のブログに夢酔藤山様よりコメントをいただきました



コメント:全国里見一族会として観覧させていただきました。
URLに当日のことをざっくり記してございます。
東国にも、もっと知られていい催しです。
どなただろう





倉吉せきがね里見まつりHPに
「里見氏大河ドラマ化に協力いただいている小説家の夢酔藤山さんが
執筆された「堀村の空ー里見忠義哀歌ー」を紹介します。
と記載がありました