わが町のレガシー

テーマ:鳥取の「人」!

昨年(2021年)の7月に 
上井神社で七夕おくりを行っていただいた後の宮司さんのお話 

倉吉駅がある地域は、
約300年ほど前は人々が住まない沼が多くあった地だった
そして近くを流れる大きな川が暴れ川(現在の天神川)だった為、
整備をされる時、この地が安全に過ごすことが出来るよう願って
上井神社を建立。
でも、この倉吉駅周辺に家が増えたのは、ほんの数十年前なんですよ
そして先代の上井神社の宮司さんから聞かれたお話をしてください
ました。

Fndp4lCl駅前に現在の道が出来た時には、
地域の方々が(滑走路みたいな大きな道だ)ここに飛行機でも飛ぶだか

と言われていたそうです。

現在では決して大きな道とは言えませんが、それでもすっきりとした道が出来たことは市民の誇りでも
あるのでは・・と 

日本海新聞の【私の視点】への掲載記事
倉吉駅前通りの4車線のお話がありました。 
投稿者 藤井忠篤様(倉吉市伊木65才)

先日の倉吉市長選で第7代市長が誕生した。
新市長広田一恭氏は地域経済の回復復興を掲げ、市民から圧倒的な支持を得て当選された。私も新市長のもと、倉吉市の発展を期待している。


さて、私たちの地区には世代から世代に受け継ぐレガシーがある
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年程前、先人が将来を見越して建設した。この通りの4車線化は、
昭和28年に就任の
初代市長 早川忠篤氏の大英断と聞いている。

この4車線化は後の上井河北地区の発展につながった。建設当時、
中山間地ではもっぱら牛馬が荷車を引く運送手段が残っていた。

昭和40年頃、各家庭にはカラーテレビ・クーラー・マイカーの
三つの品物がそろい、新三種の神器と言われた。 

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=昭和40年代の上井駅(倉吉駅)

まだマイカーの時代ではなく、
私の記憶にも昭和50年は郡部の
国道313号は砂利道という交通事情
であった。

早川市長は将来のモータリーゼーションを予想され、当時の地方小都市としては他に例のない4車線化を推進された。
自動車の少ない時代、周囲の反発がある中の判断、決断と
容易に察せられる。

このたび4車線とレガシーのある私の地区の自治公民館の新築移転に
関わることになった。私はこの新築移転の目的は防災力の強化、
住民の教育向上、健康の増進、生活文化の振興、社会福祉の増進に
寄与し、住みよい地域づくりをめざした地域コミュニティの活動実践
の場づくりと考える。

未来志向の老若男女の居場所としてのシンボル、数世代を経ても地元民が誇りに思えるような施設になれば良いと思う。この4車線のようにその存在が当たり前で、住民と一体感のある世代から世代に受け継ぐものとするレガシーを作りたいと思う。とありました。

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 =40年代の上井駅の写真は、
令和4年3月に上井地区振興協議会様が発行された「昭和の上井記録写真集 継(つなぐ)」 に掲載されている写真です。エキパル倉吉2階交流ホールでもご覧いただけるよう、只今準備中です。

以前ブログでご紹介した偉大な方々もお忘れなく!!

汽車が走ると土地が動いて稲が切れたり割れが起きたり、煙で農作物が不作になるなどの反対が多かった明治の時代に 上井地区(日下村)に鉄道を通された村長福井善十郎氏  

💻倉吉駅開業120周年「倉吉駅物語」

三朝温泉の発展を願って大正時代に村営のバスを走らせた 
松原勇蔵村長
 当時 村民は無謀と非難!


まだご紹介出来ていませんが、
2011年南北をつなぐ市道を設け橋上化駅となった倉吉駅
線路で分断されていた上井地区をつなぐ事を願い橋上化駅となるよう
10年もの長い歳月活動されてこられた皆さん。

その時代 時代で頑張ってくださっている多くの皆様がいらっしゃい
ます。
そして大きな夢を果たせなかった方々も・・・
数十年後にはその夢が引き継がれ現実となることも・・・


今あるのが当り前ではなく、
このように尽力された方々を思う日があってもいいのかな
と思った記事でした。