最古の記述
11月28日(日)
今日はいい天気〜
昨日はとても寒い一日でした
倉吉白壁土蔵群は昨夕あられが降ったそうです
= 倉吉観光MICE協会様Twitter
だた、今日から寒さは少しひと休みするようですが・・・・
さて倉吉で盛んに生産された脱穀用の農具の「千歯扱き」について
鳥取で古文書が発見されたことが話題になっています
写真の千歯扱きは2015年に豊田家住宅で見たものです。
ブログ※いただいたコメントもご覧ください。
千歯扱きは、倉吉の鍛冶町で作られていたものと思い込んでいました
新聞記事を読むまでは・・・ 日本海新聞
倉吉博物館に所蔵されている有形の民俗文化財である「倉吉千歯」
千歯扱きについて➡ Wikipedia
新聞には・・・
千歯扱きの記述が確認できる文献は安政年(1854~60年)のものが
最古とされてきたそうですが、この度発見されたのはそれより100年以上
前にさかのぼる江戸時代中期の享保年間(1716~36)のもので、
この資料・・・県中部の旧家から引き取った屏風の中から発見された
そうです
この古文書は、屏風の下張りとして300枚以上使われていたそうです
この貴重な古文書は千歯扱きの販売や修理をした際の帳簿で、
商品の名称と販売先、代金を日付順に記録されているそうです。
帳簿には、新品の千歯扱きの販売、修理の記載があり
新品の千歯扱き・・・一新せんは 壱丁 代銀三拾目
修理・・・せんは直シ壱丁 代銀八匁
職人に関する史料はほとんど残っておらず発見の古文書の価値は高く、
刀工の一族が江戸時代になって野鍛冶となったことを示す史料と同時に
千歯扱きの歴史をひもとく重要な発見だそうです。
中でも、
「せんば」の表記があることが新しい発見で、
せんばの修理代は 代銀八匁に対し、稲こきは代(銀)五匁 で、
「せんば」の方が高価だったようで、どちらも鉄製の歯が複数あった農具と思われ、同時代に併存いていたと読み解ける。
ただ、専門家の意見が異なる見解をされているそうです。
千歯扱きとは別の農具があったかについては断言できないとし、
裏付けとなる新しい資料の発見が期待さえるところ。 と
歯の数だったりして
この帳簿を残したのは、
室町時代から末期から江戸時代初期にかけて伯耆国(鳥取県中西部)で活躍した刀工、見田広賀(みたひろが)の子孫で
久米郡津原村(現:倉吉市灘手地区)
見田平五郎廣賀の表記があり、ご子孫は代々「広賀」の名を継承。
>見田家は、
農具や生活で使う刃物を製造、修理する野鍛冶屋で、津原村の庄屋でもあったそうです
鳥取藩の武士、浅田牛之丞が「薄刀(のこぎり)」を注文した際の出来栄えをたたえる手紙には、広賀の子孫が高い技量を持ったことがうかがえるそうです。
現在北栄町で開催されている
「不滅の刀〜よみがえる伯耆国の赤羽刀」展で、刀工見田広賀さんが手がけた刀剣の展示や今回発見された古文書が展示されているそうです。
気になる見田家
私が知っている津原の「みた」さんは美田さんが多いのですが、電話帳で
調べてみたところ倉吉市内に「見田」さんのお名前を見つけました
子孫の方はお元気でお過ごしなのでしょうか
大昔、灘手地区は海だったと聞いたことがあり、
屋号がくじらのお宅があるとも・・・
標高が低いので、海だったとは思いますが、気になる灘手地区です